雨の日は何もかもがロマンチックでエモーショナルになる。いつもは切れキャラでお友達を笑わせている私でも、雨の日と日が暮れたあとは人が変わったように女になる。ギャップというには突飛すぎて、今までは変わり者というレッテルをはられうまく人間関係に自信が持てなかった。
だでも彼もそんな経験は少なからずしていると思う。ただし、こんなふうに言語化できない人が多いからうまく人生をつかみきれないんじゃないだろうかと。また自分のことを認めると前進することを余儀なくされるからあえて言語することを避けているのではないかと。
子どものころに親に勉強しなさいと言われすぎた弊害かもしれないと時々思う。人間だれしも天邪鬼なところがあるからそんな部分を大いに開放してしまうきっかけが子供のころに親に言われた「勉強しなさい」の強要なのではないだろうか。
幸いにも不幸にも、(これは親がうるさく言わなかったという面でもそうだし、ネグレクトのような難しい家庭環境で会っても言えると思うが)、親が勉強しなさいと言わなかった家庭の子供のほうが大人になってやりたいことをやっている気がする。
人間の二面性は生れたときから孕んでいる。子供が大人になる、生きていくという点ですでに二面性が強要されているし、ママの顔があり、女の顔があり、キャリアの顔がある、この面では三面性が強いられている。そのどれも同じような顔はできない。できないからこそ単純にありのままという言葉を多用できないことを知ってもらいたい。ありのままに成れない時も人にはあるのだ。男性も同じことで、キャリアの顔、家庭の顔、父親の顔、それですでに三面性。夫婦は対等でありながら役割分担をすることに合理性を見出した昔の家長制度は素晴らしいとさえ思う。いわば家庭という会社の中で社長の父親がいてという分業制といえよう。
その昔愛人を作ることは男の甲斐性とされていた。浮気とか不倫とかそんなレベルの低い話ではない。家族の構成員、会社の雇用のようなもので、きちんとお給金も渡されていた。今の人々がこの愛人制度やおめかけさんをどの程度理解しているかは心底不思議に思うのだが、昔には昔の社会のなりたちがあり、仕事を効率的に運営していくための制度があった。惚れた貼れたの簡単な話ではない。昔の人はもう少し「大人の世界」で生き、その感覚を万人が共有していた。社会全体が成熟していたのだ。
一点、注意だが、おめかけさんを囲えることは男の甲斐性である。貧乏人がストレス発散のためにセフレを作るような次元の話ではない。面倒を見れないのにセフレを作る男はただのヒモだ。自分が女性に面倒を見ていただいていることを忘れるなと思う。「色男、金と力はなかりけり」。女に面倒を見てもらうしか生きる道はなかったのだ。
ありのままだとか、そのままでいいという言葉が何か免罪符のように騒がれていて、その言葉が足かせになってみな同じ顔をしなければならないと思いがちだが、毎度言っているが風潮と自分は違うし、自分の人生と仕事は違い、家庭と職場は全く別次元の進み方をしていることを忘れてはならない。
別の顔をいちいち共有しなければならない義務はない。それが仕事というものだ。
人間関係に自信が持てないのは自分を受容してくれる場所がなかったからだと思うし、その根源的な問題は自らの多面的な顔を受容してくれる環境を自分で形成できなかったこと見つけられなかったからだと思う。
家庭は最小単位で、その最小単位がまとまって社会や国家を形成していく。一つの優しさがパルサーとして放射線状に優しさを連鎖していくのだ。大それたことをする必要はないし、万人に認められようと最初から頑張らなくていい。最小単位から。
スタートは自分の両手からはじめればいい。今日の小さなスタートがきっと知らずに大輪の花の栄養となっているのだから。
0コメント