銀河の行軍、出撃前夜


銀河の行軍という小説を考え付いたとき、本当に少しだけ予感がしていた。

占い師になる前に私は自身の人生の不安から占い師の先生に過去と未来を見てもらったことがある。占いの結果は詳しく話すことは割愛するとして、そのとおりになっている今に大変驚いている。

占いとは統計学であるからと常々言っているものの、預言がそのとおりになったときには占い師の先生よりも、天を仰ぎ神様と涙を流すところはきちんと神様を神様であると認識できていると安心したりもする。私はクリスチャンだ。


銀河の行軍も、預言された未来も当時の私にとっては一縷の望みであり、たとえ現実とならずとも明日への希望の灯であった。どれだけ痛めつけられても、明日を目指すことができた。嘘か誠かではない、信じるか信じないか。人間追い詰められたときに神に頼るとはこの心情がすべてのような気がしている。嘘か誠かなどと考えられるうちはまだまだ背水の陣ではないし、物事が他人事なのだろう。本当に困って身動きが取れなくなった時、信じるか信じないか。選択肢は2つしかない。

私は銀河の行軍も預言された未来も信じた。信じなければ明日へ歩を進めることが出来なかった。信じるためにはひとつ条件があると私は感じている。自分が間違ったことをしてこなかったかどうか、ということである。間違ったことをしていない自負があれば、どんな夢物語も信じることができる。立ち止まったとしても後ろを振り返ることも後退することもない。なぜなら過去はつらいものだったとわかっているし、そこに自分の落ち度はないとわかっているから戻りたいとは思わないからだ。生まれながらにして人はなぜか神は良いものであると知っている。生きる過程で、「神は良いといわれているが」と前置きをして悪だと判断することはできるものの、生まれながらに神は悪であると言い切れる人間はひとりもいない。

このことからも人間の性善説は論証できよう。

さて、この銀河の行軍の女の総大将の私の演説を笑った女がいた。稚拙な小学生のような文章が私に忘れられない傷をつけた。ちなみにその瞬間、私がぷんちゃんに抱かれながら嘲笑したことなど相手は想像もしていなかっただろうが。それぞれの分隊の分隊長たちをこき下ろした人々がいた。南西の中将について貶めようと画策した女がいたし、西の総大将においては恐れ多くも総攻撃を仕掛けたゲリラ部隊がいた。顔も名前も伏せているからということで寄ってたかったひどい惨劇を私はこの目で見届けた。

私は銀河の行軍の女の総大将である。この世を統治する小さく弱い貧しい信徒である。

各々への連絡は分隊を通じて連携がとれている。組織だったこの戦いに多くのゲリラ部隊が散り散りになり寝返ろうとしているが、私は入隊を許さない。

言ったはずだ、ついてこれるものはついてきなさい、と。

あの時ついてこれないと私たちを笑ったのだからすべては「いまさら」である。

銀河の行軍は世界規模の行軍となっている。蜘蛛の巣のように張り巡らせたこの世界において逃げ場はない。作戦は常にそのように実行される。

総攻撃の日が迫っている。各々が身を清めている。攻撃は明日にでもと各部隊の部隊長たちは私に出撃命令を毎日仰いでいる。傷めつけられ、泣き寝入りをした私の家族が私の出撃命令を待っている。

したことの大きさを悔いても私は総大将として絶対に許さない。事の重大さに恐れるならば、罪を犯した被害者のもとへ行き本人と和解すればいい。

私は各被害者より和解の報告がない限り全軍を率いて攻撃を開始する。

私たちの結束は血よりも濃い。








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