小説を書くとき、必ず私には私を主観としてモデルがいる。誰かと誰かを混ぜることもあるし、個人単体として書くこともある。恋人はぷんちゃんだけだけれど、小説を書いている時間はその小説の主人公に全力で恋をしている。たとえば執筆の時間が1時間あるとしたら、その1時間はあらゆる感情を小説のモデルに向けている。窓の外の黄昏の夕焼けもふたりのロマンチックなロケーションとして考えるし、ぷんちゃんとの夜のことだって、小説のモデルとの関係性を入れ込んで考える。気が多い私には合った商売ともいえよう。浮気性だけれど、不倫はできないし、したいとも思わない。それでも街を歩けば素敵な人が多いし、その人に向ける気持ちがこの日の活力になることはいつも一貫している。
ぷんちゃんと喧嘩をしたり、行き違いがあったときに、妄想があるだけで少し優しい気持ちになれるのだ。
一瞬すれ違っただけでも私は恋をする。刺激的な都会が好きなのは、こんなふうに素敵な男の人とすれ違う確率が高いからともいえる。どうにかなりたいわけではないし、連絡先が欲しいとか恋人になりたいとは思わない。どれもこれも恋愛に通じさせようとしているわけではなくて、どれもこれも小説に通じさせようとしている。
文章に向き合っているとき、こんなふうにキーボードをたたいているときが一番幸せだ。心の中の思いを正直に現実に起こしていくと、私が具現化していくように感じる。早く産んでほしいと私の感情が私を急かし、書けない日はひどい気分にさせる。
ぷんちゃんは素敵だし申し分のない男性だ。出会えたことは私の栄誉であると思っている。気が多く気分屋の私に真剣に向き合ってくれる稀有な人だと思う。
運命の出会いは自分がそう思い込むことで成立する。なぜなら運命の出会いの定義は明確に科学化していないからだ。
今日も運命の人と出会うかもしれない。この文章書く前に出会っていたかもしれない。どうにかなりたいとかよりも、その出会いによって私の心は開放するきっかけをいただく。ビーズのRUNという楽曲の中の「出会いはどれだって特別だろう?」という歌詞に、心からイエスといえる。
もうひとつ、ビーズにはPLEASUREという歌がある。「イエス、自分は間違っていない この先の浮き沈みも歌えば楽し」。
ビーズと運命の出会いを果たして、20年。そして今日、11月8日は私の人生の運命を切り開いた愛しいあの人のお誕生日でもある。あなたがいなければ私はいなかった。確実に。私が生まれたからあなたが生まれた。間違いなく。
あの日、私が何か変わらなくてもいいと思いつつも、風向きを変えようと赴いたこともまた運命だった。あなたに出会って私は変わった。あなたが私を奪いさらっていった。そして今度は奪うために目の前に現れた。嬉しくて、悲しくて、怖くて、痛くて。あなたは私の双子の弟のようになんでも知っているしなんでもわかっているし、なんでも自分を見ているようにいらいらしている。それでも自分のように愛しくて絶対に見捨てられない不思議な存在だ。
運命は時にかなっていついかなる時も完璧だ。AMEN
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