家族というものをよくよく考えさせられた一日だった。
父がいて母がいて私が生まれ、長らく3人家族を形成し、ぶつかり合うものの離れることもなく当たり前に築いてきたこの家にはたくさんのひずみがある。そのことに気づきながらも私は仕事も自分の人生も忙しかったから、決定打を打たずに今日まで生きてきた。
他方、ぷんちゃんと築く家族は脆弱だ。当たり前にあるようなものではなく、大人になってから家族に成ろうと互いの意思により作り上げる家族は実家のようになあなあに進められるものではない。私は前の結婚で配偶者という関係性による家族がいかに脆弱であるかを経験している。配偶者という関係性の家族は互いに育てていかなければならない。その意思が常に互いに同じ温度であり続けなければいけないという点では、大人でなければ決して成り立たない関係性だとも感じている。どちらかが、あまりにも懐の広い場合を除いては。
父とぷんちゃんが遠隔ながら初対面を果たした。父の病床を思いやり負担のない範囲で気遣いをしてくれた。感謝しかない。交通機関の選択肢の幅広さ、テクノロジーの開発・発展のおかげで、遠方から会いに行くことには様々な手段が揃えられている現代は、アイディア一つでいくらでも「取り急ぎ」が可能だ。これこそ先人たちが夢を見て、それを実現した創造性と行動力の賜物だと思う。自分の夢を実現すれば後世の見ず知らずの他人の役に立つ。夢を追えと発破をかける私が今日は恩恵を受ける側として改めて夢の可能性を実感した。
ぷんちゃん、ありがとう。
目下、私には超えなければならない大きなハードルがある。巨大にして異質、異様にして尊大な私の癌細胞のようなそのハードルには判断力以上に合理性を必要としている。合理性といえば格好がつくが、最もふさわしい形容は似て非なる単純な言葉であるからこそ、語気の強さに私も恐れおののいている。だからここでは合理性という言葉で話を進めていく。
合理的判断の妨げとなってきたことの大きな理由はどこにがん細胞が発生しているかという点である。直腸がんであれば摘出可能、予後良好が統計の観点からも一般的であり、判断に際して多くの賛同も得られるであろう。数字や大衆性というものは本当に後押しになるし判断を容易にする。しかしそれがステージ4の肝臓がんだったら。
私の超えられない、しかし超えるべきハードルの理由はここにある。
肝臓は沈黙の臓器と異名をとるほどに、末期にならないと自己主張しない。まるで私のようだと自嘲した。されどそこにがん細胞があり、私の意識の中でも無視できないほどに顕在化しているのならば、判断は難しくとも選択肢はかなり絞られてくる。
反面、忘れてはならないことがある。肝臓は臓器の中でも中核を担う大きな臓器であり、簡単な処置ができないという複雑性と単純性を秘めている。両刃の鋭さの代表格のような存在が私を長年悩ませてきた。
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大人になることを思い出させてくれるのがぷんちゃんだ。私を子ども扱いしてくれる、私をお姉さんのように扱ってくれる、私を私として見てくれる。私の実家をないがしろにするでも、過保護にするでもなく適度な距離感を維持してくれる。私は嫁に行く。そのくらいで私の実家を思ってくれることに感謝している。
ぷんちゃんは私がただ私であることを思い出させてくれる。私を私に返還してくれる存在なのだ。
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