もっと、、、君に




こんなふうに文章を目の前にすると目の色が変わる。そんな自分が好きだし、これが本当の今の自分だと思っている。他方、ぷんちゃんに甘えて子供に還って一人称を名前でちゃん付けしてしまうのが今暮らしている関東だということを鑑みると、アンバランスな自分のアイデンティティが着地点としている気がしてならない。アンバランスな精神状態ではなく、アンバランスなアイデンティティである。自分を鏡でのぞき込んだ時に万華鏡のように影響しあって表情を変える。しかしその表情には一定の規則性があって、範囲内で万感の思いを表情にのせて私を生きている。されど、表情にのせてばかりではかなり疲れてしまうから、文章とそれ以外に分けているのだと思う。自分のことなのに不確かなのは、私を決定してしまうことをまだ時期尚早と正しくとらえられているからだろう。この不確かさはともすれば生きる幅を持つためには絶対不可欠なことなのかもしれない。尻の青い若造が人生を語るにはまだまだ早いという謙遜な気持ちだけは忘れずにいたいものである。

盛者必衰という言葉が好きだ。諸行無常という言葉が私の生きる指針でもある。浮かれるたびに川でおぼれる盛者を歴史の中で散見してきた。義務教育課程の社会科だけでもそれは十分に勉強できる。自分が愚かなもので思い続けることが自分を律するし、成長させる。

子供に還る私をぷんちゃんは遊び心をもって歓迎してくれる。目の色が変わる私をぷんちゃんはどう見ているのかは知らない。私はこの時ぷんちゃんの目を見たことがないから想像すらもできない。加えて、ぷんちゃんには仕事の話をしないし相談もしない。相談すべき内容も愚痴もないからで、何よりも仕事の困難をぷんちゃんに解決してもらっては(それがたとえヒントだとしても)私の責任感とプライドが大きく損なわれる。

自分のためにならない。

以前話したように、ぷんちゃんとのメッセージのやりとりは中身がない。ただただ中身がない。3歳の子でも何を言っているかわかるような単純な言葉で単純な愛をささやき合う。

私は関東で子供に還り女を生きている。女が職業だと言った有名アーティストがいる。女を商売道具にしていると言った女性アーティストがいた。私も彼女たちを模倣し、小説を書いていきたい。

田舎や実家で私は子供にもなれないし女にもなれない。ただ娘であり大人であることを強要される。子はかすがいとはよく言ったもので、私は実家では実家専用の役割を演じている。そのせいで今日は体調を崩しかけた。睡眠でなんとか微調整はしたけれど。

この街には友達も恋人も女になるきっかけも子供に還る環境もない。ただ判然としない曖昧な大人と娘の役割があって、報酬として住まいと食事が提供される。ありがとうという言葉さえも空虚に感じ、自我を傷つけそうになった。傷つけられたのではなく、自らが進んで傷つけるいわば自傷行為を誘発するのだ。

両親を憎んでもいないし、毒親だとも思わない。

私に適した環境を私自らが探り当ててしまったがゆえの不幸だと母などは嘆くだろう。

大人と子供が錯綜する、女と娘が交差する。しかしその交差地点ではどうしても私は生きられないらしい。四点でから釣り下げられた天蓋の中で私は眠る。天蓋のあるベッドではぷんちゃんが私を抱いてくれるから。


0コメント

  • 1000 / 1000