聖書の一節にはこんな言葉がある「私に向かって主よ、主よと言ったものが天国に入れるわけではない」。イエスの名前で何かをしたからと言ってその行動に愛がなければ天国の門は閉ざされるという意味だが、何かを引用するとき聖書が引用されることのなんと多いこと!まさに永遠のインフルエンサーといえる書物であろう。
これほどまでに引用されるのは誰もが知る権威ある書物であり、また歴史的な信頼性もあるからで、何よりも聖書は良いものという多くの人が良い印象を持っているからであると思う。世間話程度であれば、他宗教の人でも文化として話に権威と信頼性を共感しながら話をすることができる。グローバルなインフルエンサー的書物は幾人もの記者によって書かれ、それがある種かいつまんで編集された、いわば雑誌でもある。歴史書でもあり、ゴシップ誌でもあり、道徳書でもあり、詩集でもあり、伝記でもあり、そしてSFでもあり、神話でもある。すべてを包括する万能書が一貫して伝えているのは神の愛であり、御子イエスの到来、そして、私たちの罪が許されるプロセスだ。一貫性があることに長い歴史が加わり、権威と信頼を勝ち得たと言ってしまえば俗物的だが、与えられた資料と歴史から鑑みて科学的に考えればそう言えるだろう。
現代においてインフルエンサーと呼ばれる人もまた権威性と信頼性から多くの広告や看板となっていて、それを悪用する人もいて、それを善用する人もいて、なんともはや媒体は変わっても2000年以上の昔からそれも日本から遠く離れた土地の民族と現代の私たちは同じことをやっているのだと驚かされる。悠久の歴史の中の一コマであり、私たちもまた歴史のコマに過ぎず、未来に生きる子ども達もまた歴史の一コマに過ぎない。なんとも小さく、なんとも偉大で、なんともロマンチックだ。
クリスマスといえば寒い街中に灯されるイルミネーションを思い出すが、小さな光のそれぞれの光が集合体となると温かく見え、ひとつひとつを見つめるとなんとも個性的だと感じないだろうか?
聖書には地の塩、世の光という一節もある。私たちは地の塩であるから、塩気を失っては料理に使われることのない味気ない物体となってしまう。それはもはや人ではなくただの物体、死体、躯だとさえ思う。物体が人となり得るのは塩気があるからで、また、心に光があるからだと思うと、私たちひとりひとりがイルミネーションの個性的な光だと想像できる。また、その光は燭台の上に灯せとも聖書は語る。私たちの心に灯る光を恐れることなく世の中を照らす光とせよ、と。
ひとりひとりの光には権威性も信頼性も実際はない。権威性とは誰かに養ってもらうもので、信頼性とは長い歴史の中で培っていくものだからだ。今日突然私たちは閃光になれるわけではない。そんな脆弱な私たちが、では、何によって権威性と信頼性を与えられているのだろうか。そう、ひとりひとりが授かった賜物をひとりひとりが自分の力で耕していくしかないのである。
塩に塩気はもともとある。光ももともと私たちに備わっている。その塩気と光に権威性と信頼性を持たせるのはインフルエンサーの言葉の引用ではないし、存在の後ろ盾でもない。ただただ、私たち自身が各々育てていくしかないのだ。
イルミネーションの集合体はいい。ひとつの光が消えていたとしても、全体で温かさや明るさを感じさせてくれる。権威も信頼もチーム力であるのかもしれない。ひとつの光が消えていることを、ことさら得意げに語ることはもはや無粋という以上に愚かだと私は感じる。なぜなら、私たち自身の光もいつ消えるかわからないような弱い存在だと私は知っているからだ。
「あなたの光が消えて笑われたとき、あなたはどう思いますか?」
目には目を、歯には歯を。同じ報いが待っている。報復の連鎖を断ち切る律法によりて。
0コメント