七つの大罪

私はクリスチャンだ。13歳になったばかりの1月に町内にひとつしかない教会にひとりで通い始めた。青年会も同年代のお友達もいないなか、5年の求道生活を経て18歳のイースターに洗礼を受けた。確固たる覚悟はなかったが、猛烈に受洗したい気持ちはあった。

あれから17年、不思議なもので自他ともに認める飽き性の私がよくもまあ続いていると思う。それだけではなく、日々改たに信仰が増し加えられている気がする。神の御心とはこれほどまでに壮大であり長期的な計画なのかと身をもって驚かされる。

今日はクリスマスカードとお友達のプレゼントを買うために銀座のキリスト教ショップに行ってきた。時節柄、いつも閑散としているショップ内が大変混雑していて、店員さんたちも疲れていた。私は同じクリスチャンとして時々不思議に思うのだが、柔和と謙遜をもってという言葉を実践していないクリスチャンが多いように思う。店員さんに「カードだって言ってるでしょ」と聞き取れなかったことを笑う人も時々見受けられる。今日だけではなく。

忙しい時期にあんな横柄な態度を、しかもクリスチャンショップでさらすことをクリスチャンとして本人たちはどう思っているのかと首をかしげたくなる。どこにでもイエス様はおられる、私たちの隠れたすべてをもご覧になる方だ。

癖というものは怖いもので、例えば私のようなPCばかり使う商売をしていると、猫背になりがちで、これは日ごろの姿勢の癖が災いしている。座るとき、立つ時、急に背筋を伸ばそうにも体に癖がついてしまっているからぎこちなく不格好になってしまう。

それと同じように、日ごろから誰にでも同じ態度をとっていないといざというときにそのようにふるまうことができなくなる。敬語然り、所作然り、また感情や思考の整理も然りである。

正しく生きることや、まじめに生きることは息苦しく感じるかもしれない。しかし、これも実はなんてことない。癖にしてしまえばいいのだ。いい癖も悪い癖も、つまるところ毎日の習慣なだけである。

私は夜になると発作を起こす。精神的な発作でトラウマが大きな怪物となって私を食い殺してしまう。最近できた女性の友人は「みんなに甘えてごらんよ、そのために私たちがいるんだから」と優しくよりそってくれるものの、頑固な私は「今はそうはいかない」と一人でいることを宣言する。ごめんなさい、本当に。。。

これも癖なのはわかっている、これも癖にしてしまえばひとりで泣くこともないこともわかっている。いやはや、積み重ねた習慣とは簡単に変えられないものだ。

私は親にも「上から目線で話す」と言われたし、中学生の時から「威張っている人」と陰口を言われた。小学校3年生の通知表には担任から「まわりがまじめにやらないと語気が荒くなることがあります」と書かれている。

お友達に私は「めぐちゃんは優しいね」とか「言葉が適格だね」とほめてもらうことがある。

ネタ晴らしをしよう、告解と言ってもいい、はたまた懺悔かもしれない。

私が優しかったり言葉が適格なのはたくさん恥をかいてきたからだ。尻の青いガキ風情の頃から上から物を言うような話し方をして、多方面からお叱りを受けたからだ。いまだに治りきってはいない。

なくて七癖。どんなに癖がないような人でも必ず人には7つほど癖があるものだから、気に入らないことも流せることもそれぞれにあり、大方気にすべきではないというようなことわざだ。

ありがたいことに今のお友達は「これがめぐちゃんだから」と笑ってくれる。そして、話し方の癖に注目して温度差を感じるのではなく、私が何を思っているからで同じ温度感を感じ大切にしてくれる。

気の合う仲間とは癖の範疇が許容できる人々の集団なのかもしれない。


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