疑心暗鬼


鏡で自分を見ると時々この人は誰だろうと不思議に思う。人生が滑らかなグラデーションに感じられないのだ。ぷつぷつと途切れて別世界に転生してしまったような感覚がある。昔の写真は間違いなく私だと自覚があるのに、鏡の中にいるのは自分なのにそのふたつの人生がグラデーションにも線にもならない。

人生が線になっているという事実さえ疑ってしまう。

本当に苦しかった時私はこの世界は私だけのもので、目に映る人間の全てが私のために用意された仮想物だと疑ったことがあった。その証拠をつかむためにできることはたったひとつ、通り魔を起こすことだった。通り魔を起こさなくても目の前にいる人間をとりあえず刺し殺してしまえばよかった。警察に捕まったらそれはこの世界が私だけのものではないということだし、もしも何かうまくいきすぎてしまったらこの世界はやはり私だけに用意された仮想空間だとさらに疑いを深めただろう。

マトリックスという映画がそのままこの現実で起こっているのかもしれない、そんなふうに感じていたのだ。

今は父のことが終わり、そんな想像がなくなったわけではないもののすでにどうでもいいと受け流せるようになっている。すべきことが頭を悩ませてもうまく折り合いがつけられる。食べたいものもさほど悩まなくなったし、トイレに行くまでに何をしたらより合理的かと一歩を迷うことも格段に少なくなった。

不安や悩みが決断力や事実を捻じ曲げていたわけではないと思っている。ただ、考えることが多すぎると思考の矢印がどんどん進んでしまって、決断や事実の確認の前に瞬間移動してしまうのだと思う。

私の人生に整合性がないこともまた目まぐるしい人生を裏付けているような気がする。線を感じられない人生も、グラデーションを感じられない人生もさらに細分化されたグラデーションとなっているかもしれないし、かなり細い線でつながっている気がする。切れそうなほど細くなっても、境目が見えないほどにグラデーションが繊細になっても絶対につながっている。なぜ言い切れるか?私は今日もこの地上で肉体をもって呼吸をし生きているからだ。

生きるとは悩むことであり、迷うことであり、すべてに決着をつけられない状態のことだと思う。もっと強い言葉であれば生きている限り疑う気持ちは終わらない。疑う気持ちが消え去ってしまったらそれは死を意味する。

私たちは疑うから信じるチャレンジにより試されている。私たちは疑うから優しさを学び、人生を考え、人とのコミュニケーションを自分なりに工夫しようと前向きにいられる。

すべてを信じることは人間にはできない。そんな人間は地上にはいない。もしできるようになったとしたらそれは天国に行く準備ができたということだ。

疑うことは自学自習の基礎となる。疑うことは正しさを求める旅路の出発点でもある。疑うことは悪いことではない。人を信じられるかと自分を疑うことこそ、神がもとめられる悔い改めなのだから。


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