自分の人生は自分のペースで自分で進んでいく。人とかかわり、友達と楽しく過ごし、家族を得たとしても、自分という軸を忘れてはいけない。結婚しても離婚できる制度は最も小さい単位を尊重しているなあと私は思う。
父母は仲が悪い。私が物心つく頃から仲が悪くて、物心つく前から私は鎹の役を知らずに請け負っていた。自我が芽生え両親から巣立ち、結婚したものの、その結婚は自分の人生を自分のペースで進んでいくには困難があったから、軌道修正のために離婚した。
父母は離婚をしなかった。小学生のころ、もしも両親が離婚したら私は父についていくとふと決心したのだが、その時は来ることなく両親は別れを迎えそうだ。
子ども心に何度離婚してくれと望んだかわからない。なぜ離婚しないのかと疑問に思ったことは一度や二度ではない。
社会人になり一人暮らしをし、結婚も離婚も経験し、いよいよ親の最後を看取るときになって少しだけわかった気がする。
子どもが可愛いから離婚するような面倒なことをしない。それが父の答えだったのだと。どちらを取ってどちらを捨てるかという究極の選択である。これもまた父が自分の人生を自分のペースで自分で進んでいくという選択の中で折り合ったことなのだと理解した。子どもを愛するがゆえに、良い環境を整えてあげるために離婚するという親はやはり力があると思う。生きるエネルギーとかバイタリティとか、それから子供を思う愛情とか。そういうものが強ければ子供のために離婚することはできるのだと思う。父はそこまで私に愛情がなかったのだと思う。子育てにはあまり熱心な人ではなかったから。子供の立場に立って考えるというよりも、同じ立場になって考える人だった。大きくなったら細かいこともわかるだろう、そんな育て方をする人だったように思う。
自分のしんどさも大きくなったらこの子ならいずれわかる、そんなふうに思っていたのかもしれない。
両親の離婚を望む子どもも実際にいることを世の中にはわかってほしい。そのほうが家族みんなが幸せだと感じる子どももいる。離婚はただ単純に子供にとってかわいそうなものではない。
同じように子どもの接し方も千差万別であるべきだと私は考えている。私が危惧するのはママ友という同調圧。ヒエラルキーの中で同調圧力を感じて子どもにしてあげたいことを制限せざるを得ない状況を絶対に作らないでほしい。ママ友という同じ時代を生きている友達とはいずれ離れる、それくらいにドライに考えていないと自分が苦しくなってしまう。比べるものが多いのが同世代の子供を持つママ友だ。情報交換に関しては最大限協力しあうことが有効だが、余計なことまでべらべらしゃべる必要はないし、しゃべることを強要されるような会には旦那のせいにでもしていかないことが賢明だと思う。
立場は利用しても利用されないように気を付けてほしい。ひとりの女性であり、ひとりの母親だとしたら、それはすでにひとりではなく子供と一心同体ということだから。ママ友は子供なくして友達ではない。
子どもの立場から私は声を大にして言いたい。自分の友達の母親を悪く言う母の姿は見たくなかったし、自分が仲良くしたくないのに母親に連れられて遊びに行くなんて地獄だった。親と子にしかわからないデリケートな問題はそれぞれの家庭にある。よそ様のお宅のことに首を突っ込んでうわさ話に華を咲かせることを、私のふるさとでは「家をおっこす」という。家族を壊すという意味だ。
個人が人の最小単位なら、家族は集団の最小単位である。家族の集合体が社会になるわけで、一番小さな集合体である家族はあらゆる人間関係の基礎であり、さらに小さな単位にまで言及すれば、個人が個人として自分の道を自分のペースで歩むことが大切であろう。
最小単位の集合体が最大単位だ。
個人を尊重するのではなく、個人として自分を大切にしてほしい。
そう心から願っている。
私には子供がいない。
だからこんな厳しい正論を言ってもどこにも角が立たない。ママたちはこのブログを見たと言わなければいい。話題にしなければいい。私は子供がいないからあらゆるママの味方になれる。比べる対象の子供が私がいないからだ。
立場が違うからこそ守れる人がいる。私たちが与えられた役割が千差万別であるのはこれゆえであろう。
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