ここのところ、親ガチャだの兄弟ガチャだの家族ゲーム的な言葉が流行っているようだが、私は一人っ子だから兄弟のことに関しては言及できないものの、親のことなら少しわかると思っている。だから今日はそんなことを書いていく。
私には実母と実父がいて、幸いなのか不幸なのかは判断できないが養父も養母もいない。だから、両親に通信簿をつけるとしたら、5か1しかない。ここに養父や養母がいたら、4分割で、そ3や4という評価も出てくるだろうし、すべてに5を与えるということもあっただろう。比べるものが少ないこと、窓口が少ないことはいかなることでも見識や何やらが狭くなってしまう。だから私に養母も養父おらず実母しかいないことは実母にとっては実際不幸だったのだと思う。
さて、親の通信簿は子供からどのように評価されるか説明しよう。
一切の忖度なくこれまでの愛情と生き方のみで判断される。正義と倫理と愛情、これが評価基準になる。かわいい育児日記を世に残そうと、「私はこんなに素晴らしい母でした」と宣伝を打ってみても、子供というのはせせら笑って傍観し、最後の最後で判断しその評価証を親に渡す。
実母も実父も、養母も養父も、継母も継父も、階級を加味することなく子供は単純に忖度なく評価する。もちろん純粋な視線は自分への愛情だけでなく一人の人間として世間様への接し方、まじめさ、優しさ、自分を叱ったことと差異なく他人に接していたかなどかなりシビアに見つめている。
審判は恐ろしいほどに客観的であり主観的だ。親はその審判に対して一切の言い訳ができない。「大学を出してやっただろう」とか「面倒見てやっただろう」とかいろいろ、懇願するかもしれないが、繰り返しになるが審判の時に親は言い訳が一切できない。
なぜか?
簡単だ。その審判の時というのは、自分の臨終ないし葬式の時だからだ。看取られることのない人や葬式に誰も出たがらない人は、親としてだけでなく人間としてもそう評価されている。
逆に自分の時間を割いて、予定を変更してでも葬式に行きたい、看取りたいと思われる人は歴史に名を残されるべく立派な人である。たとえ変な噂にまみれてしまっていたとしても。
死の間際に子供がどれだけ自分に尽くすか、今から想像しても遅くないかもしれない。子供の人生からオマージュして他人を傷つけながら金儲けをしようとしたり、まだわからないからと子どもへの愛という隠れ蓑を使って他人を傷つけているような「根っから」、特に実母や実父という自分の階級に甘んじていると足元をすくわれる。本人が厚顔無恥なことは他人は何も言わない、かかわりたくないからだ。かかわらずにすむ他人なのだから放置を決め込む。しかし子供はかわいそうにそうはいかない。放置したくてもできない関係性に引きずりこまれてしまっている。だから最終審判で負債を返済してもらう権利をもっている。
私たち子供はよく見ている。愛情には特別に敏感だからだ。言葉にできない愛情を子どもは感じている。いくらひどく叱られても、いくらぶん殴られても子どもは愛情を敏感に感じている。いくら継父だとか継母だと、世間がひどいレッテルを貼っても子供は愛情を敏感に感じている。今は素直になれず言えなくても、愛を感じていれば、ありがとうを無意識に持っている。
私の友達には親ガチャに失敗した人が幾人もいる。だからそんな彼らが私の家族となり、互いにありえないほどの深い絆を持ち、これでもかと自分を捧げるように愛し合っている。そんな彼らと私は話す。
「親が死ぬまでは死ねないね。だから今日も負けずに美味しいもの食べてお仕事頑張ろう!」
子どもは成長する。子どもという立場はいずれなくなる。子どもという階級を捨てることも成長するにつれて子どもには権利として与えられる。その時、子どもは「人として」判断を下す。
ぷんちゃんにはわからない私とお友達の話。それでもぷんちゃんは優しい人だから、こんな私たちに「できることは助けるから」と真剣に向き合ってくれている。
ぷんちゃん、いつもありがとう。
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