悲しんでいる者と共に悲しみ、喜んでいる者と共に喜びなさいとイエス様がおっしゃるけれど、私は明るいことが好きだし、喜んでいる人と共に大きな口を開けてガハハハッと笑うほうが性に合っている。暗いくなってしまうことが嫌だから、コロナ渦中であってもなんとか明るい話題を引っ張り出してきては自分を鼓舞してきた。
神様の教えはこの世の真理だからねじ負けてしまっても、必ずや真実に連れ戻される。的外れであっても、当たるまで試合は終わらない。なんてスパルタなんだ!
物は考えようで、悲しむ人と悲しまなければならないなら、悲しむ人を極端に減らしてしまえばいいのではないだろうか。喜びを増大させて、悲しみを減少させる。涙をこの世から消してしまって、笑いにあふれさせる。
何も難しい話ではない、悲しみに暮れている人を、ひとりが一日ひとりずつ笑顔に変えていけばいい。ケンカをしてしまって後味の悪い人に「ごめんね」を言うでもいいし、それが恥ずかしかったら「食事券が手に入ったからちょっと来い」でもいい。ひとりひとりが仲たがいしている人、そして許せそうな人を見つけて握手をする。それだけでも世の中の笑顔率は上がる。
悲しむ人と悲しむことは喜びに押し上げる準備段階であるけれど、そこで終わっていては悲しみは減少しない。とことん悲しんですっきりしたら笑顔を残す。印象操作みたいな話だが、最後の印象がその人のほとんどの記憶を占めていくらしい。例えば一日の最後に会った人が満面の笑顔だったとしたら、その人の一日は「楽しかった」で総括されるという具合に。トリックのようなマジックみたいな話で、心理戦という物騒な呼び方をする連中もいるがそれは違う。
笑顔にすることは決して戦いではない。魔法だ。
ディズニーランドに行って私たちは笑顔になる。楽しかった、夢を見ているみたい!と日常を離れて良い気分になれる。夢の国だから。園内には多くの思いやりという魔法が溢れている。工夫やアイディアはトリックであるし、ファンタジックな世界は日常がいかに戦闘状態であるかを思い知らされる。停戦協定のような、冷戦のような状況下に暮らす私たちがディズニーに求めるものは平和を待ち望む人間としての希望であろう。ディズニーランドを心底楽しめる人は夢の国でマジックを体現できるし、日常に戻っていっても魔法を使いこなせる。しかし、ディズニーランド内の魔法を「利益目的の心理戦だ」と舞浜駅に降り立ってもなお武装解除できない人はどこへ行っても戦うしかない。冷戦状態を当たり前だと思ってしまう思考の硬直は無限ループを「変わらないもの」と曲解しあきらめてしまうようなものだ。どうせまた悪くなる、どうせうまくいかない。どうせ、どうせ、、と。負のループは虚像である。けれど、正のループもまた不確かだと言わざるを得ない。私たちは人間であり、あらゆることを把握するには頭が小さすぎる。
無限ループは「変わらない」という意味でとらえるのなら、それは時代の波でありそういう時代だと理解しておくことも広がりの幅を生むのかもしれない。
時代は繰り返す。今年の秋の流行は私たちが青春時代を過ごした90年代のリバイバルのように見えている。90年代の青春時代、上の世代はあれは70年代のリバイバルだと目を細めていたことを思い出す。
宇宙は膨張する。宇宙は広がっている。超新星を繰り返しながらも、新しいブラックホールを発見しつつも、私たちが見ている宇宙はほんの一部分でしかないことは通説であり小学生でも理科で習うような基本的なことだ。無限ループも比例して膨張し広がっている。つまり、今見ている変わらないことはただ規模が小さく認識されているだけということでもある。
宇宙と思考は似ている。毎日広がる可能性を持っているし、捉え方一つであらゆる魔法を具現化できる。何よりも似ているのは宇宙も思考も私たちが知らないだけということ。私たちの想像以上に可能性を秘めているもの、それが宇宙と私たちの思考だ。
やってごらん^^大丈夫、いけないことは神様が身を呈して止めてくださるから。どんどんやれ、どんどんいけ!!
手前みそであるが、私の父もよく言った、「どんどんやってみろ!お父さんが責任取ってやるから」と。
パパがまた元気になること、皆さんお祈りお願いいたします。
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