WWJD


キリスト教の青年会では鉄板の笑い話がある。

「アイドルとは偶像という意味であるから、アイドルを生業としている人をあがめている人は偶像礼拝をしている。ただし俺もね!」。

偶像とは何かを神に見立てたもの、あるいは似せて人間が作った被造物という意味である。何かを牽引したり、先導するときに旗や音楽では力が弱いからと人を偶像にしてしまうことは大変危険な行為である。誰にも与えられている基本的人権を侵害してもいい存在と誤認してしまう可能性があるからだ。誰かに教えられたわけではないが、公共物ととらえられ何をしてもいいという概念がはびこる。アイドルというひとつの職種を特別視してしまうことは全く誤認である。

職種の特別視と対極にあるのは職業差別である。職種の特別視も職業差別も単純に世の中の固定観念によるものだとどれだけの人が気づけているだろうか。感じていても気づけないと、固定概念があるおかげで考えるチャンスを失い才能をつぶしているように感じる。

概念の固定化は考えるチャンスを奪う。このスピードの速い現代社会において、便利な思考の仕組みだとは思う。与えられた固定概念をそのままトレースしていけば、誰にも怒られないからだ。しかも正義を言えば褒められる。褒められることは木に水をやるようなもので、自尊心を育ててくれる。誰もが褒められたいと思うのはこのためだ。


世の中を牽引しているのはいつも正しさとは限らない。イエスキリストも当時は群集の流行に巻き込まれ神のご計画とはいえ、十字架にかかった。あの時に神の御心がイエスキリストを大往生させるというご計画であったならば、時代の流行はどのようにかわっていただろうか。

イエスには十二使徒がいた。弟子である。職種は様々なで忌み嫌われる職業に就いていた人も致し、一般的な職業に就いていた人もいた、もちろん人にうらやまれるような職業の人もいたことは聖書に書かれている。また、イエスが死に葬られたのちに、使徒となったパウロはイエスの教えを真っ向からつぶしにかかるいわば敵であり、高名であり金持ちであり、また博学で特権階級であった。

十二使徒たちはどう伝えたのだろうか。私は想像する。もともとついていた職業を存分に利用するだろうと。あらゆる職業に就き、あらゆるパイプがあり、あらゆる伝え方ができたからこそ世にイエスの教えを広めることができた。イエスは彼らをお召になったのは決して職業や家柄のような看板ではなく、志を持てる心があるかどうかであっただろう。地位のある者や、お金のある者、また逆にさげすまれたり、疎まれたり、社会的に身分の低いもの、それぞれのこの世の立場をイエスが「最善である」と感じられたのは、あらゆる場所に宣教できる立場であり、同じ志を与えられていると判断したからだと思う。

世の中には多種多様な職業があり、一部の職業はどうしても偶像化されてしまう。その偶像や押し付けられた理想を具現化することもまた職業だといえばそこに有名税も発生し、大変なご苦労も多い。

イエスはそんな人々を見て憐れまれ、このようにおっしゃるはずだ。

「私の目に、あなたは高価で尊い、私はあなたを愛している」

徴税人というのは金持ちだけど当時のユダヤ人社会では大変嫌われる存在であった。忌み嫌われる職業の代表格といえるかもしれない。新約聖書の冒頭のマタイによる福音書の著者はこの徴税人という職業に就いていたと伝えられている。

固定概念により世の中につまはじきにされてしまう悲しみにイエスは目をとめられる。決して職業や看板で人を判断しないということがすでにこの出来事からも知ることができる。

偶像を押し付けられた人々にもイエスは悲しみを共にされ、愛を示され、そのタラントと言われる才能を活かし役割を見出される。

タラントとは宝物のような意味であり、人間の才能を意味する。誰にも与えられたタラントを増やすのか、それとも据え置くのかそれもまた各々に任されている。資産管理を楽しめる人はタラントを幾重にも増やしていく。


私たちが目を向けるべきは他人のタラントではなく、自分のタラントである。

十人十色な私たちにはそれぞれに与えらえたタラントがある。そのタラントは唯一無二で他人がどんなに欲しくても持っていないものということを忘れないでほしい。そしてそのタラントを幾重にも増やしていくことが世の中のためになっていくこともまた忘れてはいけない。個人個人のそれはいずれ何かと結合し、また磨かれて世のためになる。あなたの才能でなければ意味がない。

苦難は忍耐を、忍耐は練達を、練達を希望を生んでくれる。

苦難こそは希望の出発点である。

イエスの苦難もまた私たちの希望の出発点であったし、今のコロナ時世のはじまりの苦難は収束後の世界の希望であるよう私たちは今忍耐を練達に代えている時期であろう。

タラントが見えないと思っている兄弟姉妹たち、そこは今苦難である。だから今希望への出発点に立っているのだ。おめでとう、夜明けに向かう行進が今あなたに備えられはじまりの合図が鳴った。行進は困難を極めるかもしれない。しかし、必ずや途中の忍耐が練達となり最後には希望という夜明けに導かれる。

ちなみに、タラントとは当時の貨幣単位だ。そして今ではこの語源から「タレント」という言葉が生まれている。タレントの言葉の語源からテレビに出ているタレントは決して異質な才能ではないことを少し考えるきっかけになればと願ってやまない。彼らの才能はテレビが求める才能であって、あなたにはあなたにしか与えられていない才能があると考えるきっかけに。そして、テレビに出ている人々もあなたの隣で笑ったり泣いたりしている友人と変わらない人間であることを。心が柔らかく、どんな言葉にも耐えられるようなサイボーグではないということを。


銀河の行軍の女の総大将を自認する私には夢がある。

世の中にはびこる悪意が少しでも緩和され、直接的な意見交換ができる世の中になってほしい。批評や球団ではなく、意見交換であれば世の中はよりよくなっていく。ネガティブはよくない。そのネガティブな感情をネガティブに落とし込むことが陰口である。ネガティブをポジティブに消化できる方法が直接の意見交換だ。

恐れることはない、ここも神の御国である。互いに優しさと思いやりがあり、目的があれば多少言葉がきつくとも、イエス様が仲介してくださる。私たちが相手を傷つけたその言葉のためにイエス様は十字架にかかって死んでくださったのだから。

言動に迷った時のおまじないの言葉がある。

「WWJD」=What would Jesus do=イエスさまならどうするか?

なぜなら神は愛だからだ。







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