行軍変遷


勝てば官軍負ければ賊軍である。

私たちが負けていたときは集団いじめを受けて、私たちは忍耐を学んだ。いつか必ずその時が来る。真実が明るみになればきっと何かがはじまる。光が差し込む瞬間を待っているだけの私たちは身を寄せ合って寒さをしのいだ。光あれと神がおっしゃったこの世のはじまりを誰が予想できただろうか。暗闇とは実にそのような不安である。

勝てば官軍、勝利と共に凱旋行進曲がとどろけば、賊軍時代の官軍が手のひらを反して私たちに謁見を申し出た。そんなことを私たちは薄ら笑って許すほど頂点に達していないことを身をもって知ることとなる。官軍には官軍らしい振る舞いがあると教えてくれたのは、何を隠そう、官軍も賊軍も経験しているトップランナーたちだった。ヒルクライムの本質を知る彼らは達観したもので、ただただ私たちの行軍を面白がり賛同してくれた。私たちが何者でもかまわない、ただ同じ感覚を持っているねと寄り添ってくれる。

下品にも、また、日和見主義にもほどがある連中が、あの気高いと言われるキリスト教徒の中には多数いる。キリスト教徒であるという看板は何の威力もないことを私はひとりのキリスト教徒として大きな声で宣教していきたい。

助ける人もいた。その助ける人を見つけてくれたのは、キリスト教を信仰していない兄弟だった。彼には何か宗教があるのか?そんな話をしたこともないほどに私たちは人間性のみでつながっている。肌の色でも職業でも、ましてや生まれた家柄でもなく、ただこの人が私たちを助けてくれ、私たちがこの人たちの感性に惹かれた、理由は単純明快で廃れることのないものだった。

ひとり、またひとりと私たちに恋をし行軍に加わってくれた。その歩みが一年を過ぎた頃、巨大な龍となり日本にうねりをもたらしていた。そんなことは暗闇の最中では考えも及ばない、夢物語にも想像できない、まさに神の思考の中だけの事実だった。


私は時に声を潜め、身をひそめる。轟くような大きな声と度胸を蓄積する必要があるからだ。私は私の人生を歩めばいいとサポートしてくれる。その人々に恋をしていると表現することがなぜ「酔っぱらっている」ことになるのだろうか?

言葉の表面しか舐められないような大人はワインを飲む資格はない。ワインとは味わい深く表面のざらつきの奥にこそ味わいがある。見いだせないのにワインを飲むものは、キリストの血にはふさわしくない。

私たちはあの日から出禁なのだから、私たちを友達と勘違いされることは大変迷惑だ。

許すのは被害者のほうだ、加害者が許されたと勘違いしてもらっては困る。

言葉を入れ替えて目新しい言葉を作っても長続きはしない。聖書がすたれないのはその点で真逆の働きをしているからだ。


感謝と祈りをもって、

愛しい兄弟たちと過去の惨禍にあった私たちへ。




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