私が世の中に姿を見せれば見せるほど、私のいわれのない「物語」が作られていたことに驚かされた。事実無根のことが向こう側にとって都合が良いように作られていることに、私が泣いているとわかってここで叩きつぶせとばかりにあてつけてきたのかどうかはわからない。ただ疲れたから私は読むことをやめた。
気持ちが弱い人間で、ずっとずっと身内のサンクチュアリに守られて生きている。見たら自殺を考えるような内容もあったことを昨日知った。悩むことはなかったからすぐに反論に出た。なぜなら私は間違ったことはしていないし、事実無根の作り話を論破できる現実を持っているからだ。すべてにおいて説明ができる。
そんなことを丁寧に誠実にこなしていたら一日が終わってしまった。小説も書けず、記事も書けずただただ火消しに費やす一日にはだれも賃金を支払ってくれない。不毛だ。
それだけでなく、いいところだけ搾取するような他人も目の当たりにした。心臓に毛が生えている人外というものを見て、この世は魑魅魍魎の住まう無間地獄だと痛感した。
無間地獄とは絶え間なく地獄が広がりただ落とされていく最悪の地獄。一つ終わったときに多方面の地獄がやってくる、絶え間なく絶え間なく、瞬間の休息をも与えずに。
今日は日曜日でキリスト教会では安息日である。一週間の仕事を休むよう義務付けられている日であり、家族のもとへ帰っていく、いわば強制家族会の日。私は子供のころ宴会が大嫌いだった。お酒に酔った親戚たちは好きなことを言って私を傷つけた。何も知らないくせにという思いを哀しみとしてとらえたことに私の優しさの根幹があったのだと思う。
絶え間ない地獄に甘んじている自分に深夜ふと気づき、すでに安息日の日付に入ってると感じた私はツイッターを終了した。これ以上火消しに時間を取られていたら、そこからインスパイアして、また別の誰かが物語の執筆にとりかかるだろうと感じたからだ。
所詮この世は弱肉強食と言う人間には、まだこの世を良くしたいという希望が感じられる。文句をわざわざ言うということは相手が変わってくれると期待していると言い換えられるからだ。それが昨日までの私だ。
共に悲しみ悩み、涙味の飯を同じ釜から分け合って食べたもの達だけが家族になれる。涙味の飯はいつの日かシェフが作る豪勢な晩餐となるが、その晩餐に誰も彼もが招かれるわけではないし、通りがかったからちょっと食べさせてほしいの!なんていうつまみ食い根性の人間を私は心底嫌う。そういう人間は晩餐会が終わると知らぬ間にいなくなっている挨拶の習慣に欠けている不義理な人間だからだ。
常々私は単純な言葉を明快に使いたがる。ありがとうとごめんなさいの間にあるグラデーションの感情を説明できずとも感じられる人間が、センセイやパンさん、ぷんちゃんや身内の人々だとどれほどの人間が理解できるだろうかと昨日までは期待していたが、いやはや、あと一歩でわかってくれると希望を持てた人を捨て去らねばならぬほどに、この世の中は魑魅魍魎にあふれていた。
私の名前はめぐみであって、ヤバ美ではないし、男を寝取ったこともない。アプローチしたことさえもなく、気づいたらここにいた。向こうが昨年から私を見ていてつい数か月前にようやく気付いたと言っても理解することはできないだろう。私は女で自分から声をかけることもアプローチしたこともない。少なくとも今の恋愛においては。そして彼らの過去には一ミリも興味はないし、ご丁寧にあてつけてこなくても私は彼らを心底信頼しているから、これもまた無駄な時間の浪費と感じた。
話はここまでにしておこう。
あとの話が知りたければ小説を読んでほしい。ただし、これからは晩さん会の会費はしっかりいただくことになるけれど。
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