私の小説のモデルは恋人だったり、友達以上恋人未満の親友だったり、弟みたいにかわいい男の子だったり、道ですれ違っただけの名もない匂いのある人だったりと、私がこの目で見て何かをかぎ分けたひとばかりだった。それだといくつかの支障が出てしまう。リアルでケンカをすると小説が書けなくなるのだ。
私にはにおいをかぎ分ける力がある。この人は私を受け入れてくれるだろうとか、警戒しておくべきだろうとか、何をどう思っているかをにおいでかぎ分け、姿勢で確認し、視線で確信する。直感が鋭いから、現実的な判断よりも自分の直感に頼ることが多い。人の好き嫌いはまず間違いなくあたる。それは「この人と関わったら自分は破滅に向かう」という恋愛の危うさも含んでいる。
君子危うきに近寄らず。
直感は時に私の範疇を超えて電波をキャッチする。カンニングしていないにもかかわらず偶然にも同期してしまうことがある。知らなかったのという言い訳は誰も信じないだろう。なぜなら、すでに情報として現実に鎮座していたわけで私がたまたまその前をスルーしただけだからだ。知る人は知っている、私は知らなかっただけ。言い訳ができるとしたらそれくらいだろう。
だいたいの行動を後悔することはない。未来志向を旨として前へ前へ!と明治大学ラグビー部の精神が好きだから、「あの時ああしていれば」と思うよりも「あの時の苦しさの結果がこれでよかった」と思える。しんどい過去の解釈がうまいともいえよう。
だから後悔すること自体、私を動揺させる。
小説のモデルをだれにするかと決めるときも私はにおいを頼りにする。声を聴いてなんとなく世界を作り上げ、いくつかの表情から自分と交わらせ文章に映していく。
出会ってはいけない人というのがいる。脳内に入り込んでくることさえ拒むべき人がいる。未来永劫会うことがないとわかっているし、決めていても、一瞬でも考えてしまえば何かに侵食されて、蝕まれてしまう人がいる。
そんな人を私は小説に映して解毒することも覚えていかねばならないと最近は考える。
恋ではないもののどうしようもなく惹かれ気になる人がいる。どうにかなりたいわけでもないし、できればすべての情報を遮断してしまったほうが私のためだとわかっている人がいる。それでも気になってしまう人がいる。
宣言しておく。これは私のために。
危うい運命に飲まれるほど私は自分を安売りするつもりはない。後悔したのは気の迷いで、きっと今は疲れているから。私にとって人との出会いはどれも後悔という結果をうまない。どんなに嫌い合う、恋敵でさえ今までも出会ってよい学びを得たと納得してきたのだから。
小説のモデルはこれから少し色が変わってきたとしても、それはその人を解毒するための私のやりかたなだけであり、恋とは違う。絶対に。
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