計画を立てるのが大好きだ。あんなふうにしてこんなふうにして、時間配分を考えてその間にここへ移動して、未来を自分で組み立てているような感覚があるから私は計画を緻密に構成することができる。
しかし、それがいけない。
緻密で過密なスケジュールは私を分刻みどころか秒速で急き立てていく。忙しい人間でもないのに、私が建設した緻密なスケジュールが私にプレッシャーを与える。
余裕を持たせようと闇雲にまた緻密な計画を立てた。
うまくいかない。
今度は自分の体と相談してみた。自分の体のリズムや心の調子、最低限何ができるかなどなど、なぜ余裕を持たせることができるのか、そこまで踏み込んで考えてみた。
スケジュールは過密ではなくなり、より緻密になった。
ミッションは不可能であるが可能にすることはできる、まさにミッションインポッシブル。可能にするとミッションを完了することができる。
何か達成感を得たいときは、まず不可能を可能にするところからはじめるべきなのかもしれない。私の場合であれば、余裕を持てることが可能になるよう考察し工夫した。可能になったらその通りに行動するだけ。あら不思議、そうすれば完了し私には自尊心という金メダルが授与される。
今日は相撲の千秋楽だった。優勝は照ノ富士、殊勲賞、敢闘賞、技能賞とそれぞれに該当者がいたわけだが、相撲ファンとしては15日間取り切った力士すべてが敢闘賞に値する。けがをしないことは普通ではない。スポーツ選手がけがをしないことは基礎練習に励むなど、実に努力が必要で、15日間休まず本割をこなしたというのは不可能を可能にしたと言える。
自分との戦いはいい。言い訳が一切できないところが最高に気持ちがいい。敵は自分だし、自分を倒すのだからだれも傷つけずに済む。
友人のひとりはそんなふうに息巻く私を笑いながらたしなめる。
「戦いすぎず、友達になってごらんよ」と。
厳しいビジネスの社会で成功した人だ。今もなお社員の前では厳しい態度で接している。それはキャラクターとして維持せねばならない部分だから、社員として出会った人々に対しては心底同情する。立ち位置が違う出会いであればもっと早く彼の良い部分と接することができたであろうに、と。
戦うことだけがビジネスではない、彼はそんな言い方もする。
弱さと共に歩んでごらんと言う。
もしかしたら、と推察する。
弱さと共に歩みたいのではないかと思った。弱さと共に歩むことでビジネスが成長させたいと願っているのではないかと。強いもの達ばかりが群がる自分の立ち位置に辟易としているのかもしれない。そんなことを照ノ富士をきっかけに連想して彼のやりたいこと、夢を推察したらなんとも胸が熱くなった。
誰かの弱さに伴走し、その弱さを強さに変えてあげたいのかもしれない。ここだけの話なかなかの寂しがり屋さんだ。そして凡人の何倍もの優しさを持っている。
イエスキリストはなぜ弱者に寄り添ったのか、神はなぜしいたげられている人を選ばれたのか、それは弱者や虐げられている人は聞く耳を持っているからだと聖書は語る。
成功者ほどまわりには意思のないイエスマンが多い気がしている。人間の形をしたただの人形のように感じられることもあるだろう。看板がなくなればその人形は灰になる。そんなこともわかっているはずだ。成功者ほど本当の孤独を知っている。世間はうらやむけれど、孤独を知っているから弁解するような醜態をさらすこともしない。陰口を言わず、面と向かって勇気をもって誰かや何かを糾弾するのは、自分の役割を知っているからだと思う。もう誰かに嫌われつくしたのだから、そのキャラクターを生かして誰かを守れたらいい、そんな悲しみの盾で戦うヒーローは優しさに満ちたイエスキリストに似ている。
人はひとりでは生きられない。人は誰かの役に立ちたいと誰もが思っている。人の孤独を利用してはならない。成功者だから少々の利用は世間が許すだろうと甘く見てはならない。私のように見ているものは見ているし、いずれこのように真実は明るみにされる。
私には何人ものヒーローがいる。ラッキーなことだ。
自分だけでは何も成し遂げることはできない。不可能を可能に導くプロセスを考えることだってひとりではできない。誰かが笑って誰かが泣いて、誰かのためにと考えなければ誰も何も成し遂げることはできない。
恋愛も同じだ。相手に何かしてあげたいがために嘘をつくこともまた愛だと思う。その愛は埋め立てられ永久的に出土しないということはまずない。どんなに愛を隠しても、相手のためだからと身を引くような嘘はいずれ明るみになる。
愛は忍耐強く、情け深く、ねたまない、これは聖書の言葉だ。
愛は自慢せず、高ぶらない、これも聖書の言葉だ。
礼を失せず、自分の利益を求めず、いらだたず、、、、
そして、続く聖書はこう記している、愛は決して滅びない、と。
有名な第二コリントの愛の個所、どこかで聞いたことがある方も多いかもしれない。これは結婚式に読まれる有名な聖書の個所だ。
愛を誓いあう華々しい結婚において、私たちの誓約は重く力強く互いを背負いあうような大人の振る舞いを求められることを覚えておいてほしい。結婚はステータスではないし、結婚は就職ではない。配偶者が今持っているすべての看板を失った時「自分は知りません」では通用しない。不思議だが、男の人はここのところの想像力には非常に長けているように思う。逆に女の人はこの部分の想像力が下手で現実を見ることができていないように思う。
計画的であることと、建設的であることは似て非なるもの。計画的であれば物事がその通りに行くかといえば想像力がなければ机上の空論となる。建設的であれば物事がその通りに行くかと思えばゴールが曖昧であるから現場の士気は下がってしまう。知識と経験は共に影響しあって何かを建設していく。ビジネスも結婚も、そして人生そのものも。
「名をあげたければ世に出たければ目を覚まして前を見よう!」
天使にラブソングをの劇中歌より。
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