手を止めて、手を取って


数か月ぶりの礼拝。待降節を間近に控え、昨日いただいたご縁によりて与えられた新しい教会での賛美はとても満たされた時間だった。「ああ、やはり私はクリスチャンだ」と思えたことこそが神のめぐみであろうと、自然に祈る気持ちに力が入った。

祈るとき、多くの宗教では手を合わせたり手を組んだりする。すべての仕事を脇に置いて神に向かうための手錠のようなものだと私は感じている。神に祈ること、もちろん仏に読経を捧げることもこの世の雑事の片手間というのはご法度だと感じるのは、神も仏も人間には時に強制的に休む時間が必要だとわかっているからだと思うのだ。人間は弱いが強く振舞うことも思考の中で判断する自由が与えられている。優しいが優しくないようにふるまう品位を選ぶ自由も与えられている。どちらをとっても神様も仏も道を修正してくださる。あらゆることは人間の手中にないことを知らせるために「懲らしめ」を与えられる。意地悪ではないし、地獄に堕としたいわけでもなくて、私たちの日々に正しさを教えたい愛の鞭なのだ。

選択に失敗しても同じ失敗をしないように心がけることが人間には能力として備わっている。大人になるにつれて凝り固まってしまうのは能力があることを自ら無視してきた習慣が癖となっているだけで、それを私は悪しき成功体験と呼んでいる。大人になると柔軟性が欠けていく、このくらいでいいやという怠慢があるからだ。そこに輪をかけて負の連鎖があるとしたら、風潮や流行であろう。横並びでいることは思考を伴わない、いわば思考のエスカレーターだから思考の筋力は日に日に衰えていくというわけだ。才能が欲しいとか特別になりたいとか秀でたものになりたいとかそんな思いによって人を出し抜こうと、下品な作戦を決行すること、いじめや足の引っ張り合いを私は「競争」とは呼べない。特別がいいという世の中の風潮や流行というエスカレーターに乗っているだけで、競争ではなく、単純にベルトコンベアーの上でランニングしているようなものだと思うからだ。

他を抜きんでるとは、自分の道を確立するという意味を持っている。たぬきが置物として好まれるのはダジャレによるゲン担ぎに由来している。

さてさて、今日は大変驚かされたことがあった。詳しく話すのは私としてもバカバカしいので割愛するが、今後においても一切のかかわりを持つつもりはない。土足で知らないうちに我が家へ入り込んでおいて、「盗むような金品がないじゃないか!」と文句を言われたような気分だったからだ。礼拝終わりだったこともあり気分を害されて心底腹が立った。不躾な視線を逸らすこともなかった。帰宅後私は悔しくて泣き腫らした。ブログがこの時間になってしまったのはそのためだ。

敬愛する牧師は42年間の幼稚園園長の生活の中で何を学んだかという問いに対して「ただひとつ、怒らないことです」と答えられた。怒りというのは自分の知恵によるもので裁きを神に任せていないからです、と。いやはや、説教を昨晩聞いたばかりだと言うのにこの体たらくである。いっぱしのクリスチャンとして喜んでいなさいを実践しているつもりでも、不自由な私たちは自分の感情を神に預け常に喜んでいることもままならない。

常に怒っている預言者も聖書には数多く登場している。常に悲嘆して不平不満ばかり言っている預言者も聖書には多くいる。神様からの指示を「でも、だって」と必ず否定する預言者もいる。

神に選ばれた預言者もまた人である。完ぺきではないし、その完ぺきではない人間臭さを利用して神は人々に神のすばらしさを伝えている。私の欠点もまためぐみなのだ。だからこそ、自信をもってもう一度だけ言っておこう。

今日の出来事もそうだが、私の家族とはパンさんとぷんちゃんから連なる友達のみである。私の手はふたつしかない。それ以上は存在しないし、拡大することは物理的に不可能なのだ。右にはパンさんが、左にはぷんちゃんがいる。私の両手の薬指には別々の指輪がはめられている。左にはパンさんへの忠誠を誓い、右にはぷんちゃんへの忠誠を誓うために。リングは連なり、放射線状に広がっている。これこそが愛の波動の正の連鎖である。アクセサリーでは表現できない強い絆が私たちの指から指へと伝わっている。この瞬間も、次の瞬間も、そしていつまでもと祈ることによって永遠につながっていく。




  。

0コメント

  • 1000 / 1000