私にとって11月は甘美だ。
大切な人のお誕生日が目白押しだということもひとつだが、冬に入るあのなんとも寂しく温かい時間が愛しい。そして甘い。
都会の11月は私にとって5月の時期を感じさせる。温かさが佳境に入り、これから熱さがやってくるそのわくわくする空気を感じる。5月はあまり好きな季節ではなかった。というよりも特段思い入れのない季節といってもいいかもしれない。五月病のようなこともない学生時代、というよりも年中学校には行きたくなかった。理由は明確ではなかったけれど、今考察すれば、あの当時から繊細さが極まり人と接するとすごく疲れてしまったからだと思う。
春と秋が入れ替わったこの街を私は新しい故郷と決めた。自分の帰る故郷は、特に父が死んであしまった後はこの街だと決めた。
逆説的に考えてみる。この街の春というのはどこか秋めいているのだろうか?と。答えは否であった。この街の春は春であって、そして秋は春めいていた。
生まれ育った長野は豪雪地帯の街であったし、ケッペンの気候区分は亜寒帯、そんなところからもこの街の季節のとらえ方が独特であることも仕方ないと言える。
5月と11月は数から言っても真逆だ。その中心にいるのは何かと考えてみたら、8月と2月だった。私は8月も2月も苦手だった。夏の盛りと冬から春に向かう寂しさにいつも嫌な気持ちになる。
好きな月は何月ですか?と聞かれたらやはり自分の生まれた1月と答えるだろう。
8月と2月生まれにはいつも懐疑的な視線を向けていた。あまり良い思い出がない。いい人と出会ってこなかった。
しかし、ここにきて良い出会いが与えられた。8月生まれも2月生まれも情熱的でライオンのように勢いがある。山羊座の私から見れば少々軽率に見えることもあるけれど。その点5月と11月生まれは私と同じように地に足がついた実直な印象があっ安心感がある。無条件の信頼というやつだ。それでも今の時期だからこそと私は発想を変える。ポジティブに物事を考えようと努力する。新しいことに挑戦している今の私には8月と2月とかかわることはひとつ良いことなのかもしれない。知らない価値観を知り、知らない感覚を相手の性格を介して人間関係を学んでいく。
ビーズのlove me, Ilove youという歌の中に「親でもない恋人でもない、ねえそうでしょう?」という歌詞がある。稲葉さんを思い出すと、私たちは憧れるだけの存在からも学ぶことはたくさんあるのだなあと嬉しくなる。認知されていない私たちのことも思って作っているのかなあと。
甘美な11月なのに、今年は何月なのかい感覚がない。忙しい1年だった。多くのことがありすぎて、この地球が地球であることを疑うほどに自分の世界は変わった。
短い髪と、ネイルをほどこした爪と、小説を公けにする度胸と。
地球が地球であることを誰も疑わず、疑っていると公言すればその人は精神病患者だと隔離される可能性が高い。本人でなければ見ることができない世界を誰もが認められる社会になればいいなあと思う。自分の視点と相手の視点には必ず差異が出てくるだろう。
大人になるといろんな悪い大人がいるよというのは定番のジョークだが、唖然として正論を言うのもあほらしくなる悪い大人もいる。厚顔無恥という面の厚い人々は、この世界に裏と表があると本気で信じているらしい。黙っていればいいとか、ばれなければいいとか、そういう類のものだ。裏と表があると妄信している人々の愚かな思考には心底、唖然とさせられる。開いた口が塞がらないとはまさにこの場面だと感心してしまう。
ばれなければ社会生活が滞りなく営めることを経験で味を占めたのだろう。かわいそうに。
表裏は全ての人が知っていながら知らないふりをしてくれているのに。もう戻れないとわかっているから、汚れて転がっていくのかもしれない。借金を雪だるまに例えられるが、まさに嘘も同じで、嘘をつけば嘘をまたつかねばならないし、汚れた感情は経験と共に鈍麻し、何も感じないように自分を育ててしまう。
「何もわからないくせに!!」
と、私などはお叱りを受けるかもしれないが、言葉を返せば何もわからない。同じ感覚で生きていないから私には何もわからない、残念だけれど。
雪だるまを作るコツを知っているだろうか?解けないように、少し水をかけるのだ。夕方作るのがいいだろう。夜にかけて冷え込む、そして水が夜の寒さによって固められ、長持ちする雪だるまができる。スコップで叩いて固めておくのもいいかもしれない。
冷や水を浴びせられ、寒い時刻を一人ですごす雪だるまは、時に強くなるためにスコップでたたかれなければならない。しかし雪だるまになるには重要な条件がある。その要素が、真っ白な降りたての雪でなければならないのだ。
踏まれた雪で雪だるまを作る人はいない。純真無垢な天使に例えられる子供でさえも汚い雪を嫌う。
比喩表現の雪だるまはあまり良い印象はない。それはそうだろう、比喩というものはどこか憧れをもって嫉妬をもって使うものだから。似て非なるもの、噂と真実の違いのように、そこには大きな誤認が潜んでいる。情報社会に生きる私たちひとりひとりが自分のこととして気を付けたいものである。
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