憑依


つまらない冗談が一日のはじまりを台無しにする。

私の人生の大半はそんな日々だったと感じる。つまらない冗談だけではない。根拠のない否定、根拠のない嘲笑それらすべてが私の一日のはじまりから暗くしていた気がする。

褒めてほしい、𠮟ってほしいなどなど他人への期待値が大きい人ほど、他人への思いやりが足りない気がする。私はその時ほめてあげられるほど気持ちが整っていないとか、叱ってあげられるようなところを見受けられないとかそんなふうに言えればいいのにと思う。言ったところでどうしてですか?とこちらとしては理解不能な疑問をなげかけられるだけだから、結局面倒くさくなるわけだが。

物事を見極める力や、自分の意思がないと他人とのかかわりが定型になってしまうことはいわずもがなで、とんちんかんな物言いを今の世の中はどんな商業戦略かは知らないが「不思議ちゃん」で片づけられるのだから優しい世の中とでもいおうか、ある種の金満主義に満ち溢れた貧しい世界だと思う。

(心の貧しさは金銭の有無に限らない。そこで分別をしてしまうことがいかに乱暴な流れ作業であるかも私は明言しておく。)

利己的で愚鈍を装う不思議ちゃんや天然ちゃんたちのせいでどれだけの心が傷ついてきたか、私は今もなおつぶさに現場に居合わせる。彼女たちは決して愚鈍なのではない。知らない、わからないとシラを切っている、そう彼女たちの愚鈍の装いは都合が悪いことから逃げるための処世術である、私はそう見ている。

**************************

ひとりのクリスチャンの女の子がいる。まだ大学生くらいの子だと思う。もしくは短大生かもしれない。詳しくは知らない。おっとりとした話し方でなんだかよくわからない物言いをする子だ。端的に言って頭の中は男しかいないタイプとでもいおうか。。。同世代の女の子に彼氏ができたとかそんな話になるとそのおっとりとした話し方でチクリと言う「えー、でも、そういう人ってぇ将来どうなのかなあ。私は嫌だなあ。あと○○ちゃんの髪の毛の色、それどうしたの?びっくりしちゃったあ!いや、なんか、、、wwwww」

てめえになんぞ聞いてねえわ!

と言いたくなる気持ちをぐっとこらえてお姉さんとしてほほ笑んでいる。同世代や同性というのはなかなかにして比べるものが多いから、出る杭を叩きのめしたい気持ちは私もよくわかっているはずだ。しかし、あからさまなことをされると腹が立つし、実際比べて自尊心が傷つけられたとしてもそんなものは腹に収めてあとでカラオケで発散してほしいといらいらしてしまう。無論その場の誰もがその「不思議ちゃん」に注意を促すことはない。やんわりと「そんなこともないんじゃない」というのが精いっぱいで、彼女は「えへへ」とかまってもらえたことと相手を叩きのめしたことで満足そうにかわいく笑う。実際その笑顔はかわいいのかもしれないが、その場にいた男の子たちの引きつった笑顔が物語る「うわあ、性悪そうwwww」。ポイントは不思議ちゃんの笑いと同じ温度で男の子たちも不思議ちゃんを笑っているということだ。失笑よりも嘲笑に近い笑いを男の子たちは腹に収めながらことなかれ主義的にその場にいる。好きでもない女のために争うような無駄なことはしない。男の子は女の子の数億倍、合理的だし結果主義だからだ。


人を上昇させる言葉はポジティブな言葉である。たとえ冗談だとしても、たとえその場が盛り上がるだろうと考えてもその場のひとりでも奈落の底に突き落としていいわけがない。イエス様ではない、犠牲の生贄を人間が決めていいわけがないのだ。

残念な生き物図鑑の最初のページを人間とすべきだと私は感じている。感情を言語化できる唯一の動物なのにコミュニケーションは魚よりも下手だと感じる。二足歩行で海の中も山の上にも空の中にも行ける唯一の動物なのに、どこへも行こうとしない。ただただ井の中の蛙であることに甘んじている。出る杭は打たれると言うが、打つ人々は自分が出る杭になることを想像できない。俺がやってやるという意識がないからこそ、いつまでも凡人のままで暗い顔をして人の脚を引っ張ることしかできないのだ。

他人の感情にはだれもが敏感だ。しかし自分が発する感情に鈍感な人が多い。私たちは他人を糾弾することはうまいが自分を糾弾することは下手だ。どんな事象も、そう犯罪の類からいじめの問題まであらゆる正義に反した事象をもう少し自分事としてとらえるべきだ。

自分はそんなことをしない、というおごりが自分の発する感情を鈍感なままにしてしまう。大きな悪も小さな悪も、ちょっとした陰口も想像してみてほしい「自分が加害者だとしたら」ということを。加害者を自分に憑依させて加害者になりきったとき、はじめて自分の感情に敏感になれる。つまりは他人の痛みがわかるようになるのだ。

生まれながらに人は良いもになりたいと思っている。ふとした誤解や行き過ぎで悪に身を落としてしまう。その痛みがわからないうちは発する言葉のすべてがただの偽善者にすぎないだろう。

悲しみに寄り添うことが出来たら次のステージに向かおう。悲しみの向こうには怒りがある。理解されない怒りに内包された悲しみを知る旅に出よう。

好かれたいと思っている。立派になりたいと思っている。褒められたいと思っている。そんな欲求も認めていければ、私たちはもっともっと他人に優しくなれるはずだ。










0コメント

  • 1000 / 1000