直情一徹の性格が幸いと思えることはほとんどない。感情のままに動くから失敗も多いし敵も多い。幾度となく眠れない夜を過ごしたことか。自身の性格に難ありと自覚があるから長らく人を信用することが苦手だった。いつかどこかで必ず裏切る。そう信じていたし、そう感じている。トラウマというのか、根付いた感覚というのか。バカに丁寧に人の感情をなぞるのは臆病だからだし、リスクを最小限にとどめておきたいからだ。
わがままは命取りになる。自分にメリットがなければいずれ誰もが去っていく。
世知辛い世の中を信用している。優しい世界には半信半疑だ。
キレイになることや、人への思いやり、自分以外に目を向け続けることの全ては他者に嫌われないためで、つまり自分のためだった。
時々女王さまのようだと冷たい視線を投げられたり、言葉で傷つけられるが、私の真実はわがままにふるまうことさえも処世術で、誰かを楽しませるためのものなのだ。
お人形という言葉が好きだった。女王様という言葉には恐れをなしている。誰かに従っているときはいい。こちらが裏切りのカードを握っているから。誰かに従われているときは常に恐怖がつきまとう。裏切りのカードを握られているからだ。タイミングは相手次第で、私はその時をただ毎日びくびくと待っているしかない。
へりくだり、頭づく本当の理由は自分でタイミングを計りたいから。ゲームの親は決して権力者ではない、私はその真実をよく知っているのだと思う。
文学的にまとめれば、これが心の闇であろう。芸術に昇華してしまえば自分の欠点さえも美しくすり替えることが許される。だから私は芸術が好きだった。
心の闇は時々、こんなふうに残酷に私を自傷する。それが心地よいと思っている。自傷すると私は自分が小さいものであることを思い出させる。どんなに自分がへりくだり、頭づいて人を欺くようなことをしても必ずこの醜い思いは世間様に露呈することを突き付けられると、私は真心から神を求め祈ることができる。
自分を責めることは自分を律するためには絶対的に必要なことだった。自分に厳しいのは自分の愚かさをよく知っているからだ。それはストイックなのではない、ただただ自分が世間に背をむけられたくないという臆病で依存的な性格ゆえの処世術にすぎないのだ。
ひとりは怖い。ひとりは嫌だ。ひとりにならないためならなんでもする。たとえ状況がひとりで誰かと肌も交わらせずに孤独を強いられても、私はひとりにならないためならそんな瞬間の痛みは余裕で耐えられる。
彼氏なんかも別に欲しくない。彼氏をあきらめて、結婚をあきらめて、それで私がひとりにならないという保証をくれるのなら私は平気ですべてを差し出すだろう。
陰陽の裏を見てもなお、私を愛せるだろうか?
ねえ、どう思う?こんな私のこと。
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