忙しさにかまけて最近は音楽をひとりでゆっくり聴く時間も持てなかったわけだが、やはり音楽はいいなあと思う。
今日は珍しくぷんちゃんのおすすめの曲を聞いている。私とぷんちゃんの音楽の趣味は少し違う。今まで踏み込んでこなかったジャンルはいつも食わず嫌いで、それだから25年間一途にビーズファンだったとも言い換えられよう。
稲葉さんで育った私は稲葉さんの歌詞に出てくるような女性を知らず知らずに目指していた。意図せず、いつの間にか強くて優しい女性になりたいと目標を定めて、そのようになるように勝手に運命が動いていたような気がしている。転がるように、人生に荒波に流されるように稲葉さんと共に歩んでいたらぷんちゃんにたどり着いたのだから不思議なものだ。
人生って不思議なものですね、とは美空ひばりの愛燦燦の歌詞だが、愛が陽の光のように燦燦と降り注ぐ様はどこか哀愁を帯びてロマンチックに人生を俯瞰している。私の想像の内でそんな情景が目に浮かんだ。歌詞とメロディーが縦の糸となり横の糸となり織り成していくのが音楽で、与えられた情景から今度は私が新しい小説を作っていく。作詞と作曲という結婚が今度は小説という子供を産んだ。
作詞と作曲を結婚に例えられるから、コラボレーションの類もすべて結婚に例えられる。
聖書でも結婚に例えられることは多い。
父母のもとを離れて、運命の出会いを果たすふたりを言葉でどう説明するかといえば、「ついにこれこそ、わたしの骨の骨、肉の肉これをこそイシュー(女)と呼ぼう、イシャ(男)かた取られたのだから」と聖書は表現している。そのあとに続く聖書はこうだ、「人はふたりとも裸であったが恥ずかしがりはしなかった」
ありのままの感性をぶつけても恥ずかしくない相手というのが結婚相手である。しかし、行動したり表現したりする個人個人の感性はことあるごとに「痛い」と表現される昨今、その痛いという感覚こそ「蛇の誘惑」においての蛇なのではないだろうか。
私たちはありのままの感性を心地よく思える相手、それこそ裸のままでも恥ずかしくないと思える相手と結婚するが、蛇の誘惑は常にある。蛇は言葉巧みに私たちにこう語りかける、「神もおっしゃっている」「神はご存知だ」「ご存知だがいじわるをしているのだ」、と。
先日、UNITEというイベントを見かけた。ビーズとミスチルとGLAYのコラボライブだったそうで、ありそうでなかった「結婚式」だと私は感じた。どうなるのかなど予想もできなかったし、わくわくする以前に全くの未知数で言葉すら発せず息を殺して見守った。そのくらいに私にとっては異次元の発想だったのだ。
コロナで人々はおしゃべりすることを強制的にシャットダウンさせられた。好きに話せないうっ憤は、うっ憤として腐らせた人も多いかもしれないが、そのうっ憤を黙とうとして起爆剤にした人も多かったように思う。
未開の森を開拓するクリエイターは常に蛇の誘惑をうけるだろう。この世から蛇を消し去ることはできない。食物連鎖はひとつでも欠損を許してしまったら総崩れを起こすからだ。蛇がいることで開拓が進む。蛇を退治する罠が考案されていく。
クリエイターとは選ばれし人間ではない。クリエイターになると決心し、自分を信じそのように人生を動かしたいと行動しているすべての人がクリエイターである。
蛇に成り下がるか、人として生きるか。
もっと簡単な言葉に言い換えられる、
人の脚を引っ張るのか、引っ張られる側の人間になるのか。
私はお茶の水の大学病院に通院している。駅の近くではビッグイシューを売っている外国人によく行きあう。田舎者の世間知らずな私は毎回いるその人々がどんな思いで街頭で雑誌を販売しているかわからなかった。狭い見識の中で私は何かのフリーペーパーだろうと思い込んでいた。都会はいろいろな人がいるからと、勝手に決めつけて。
このビッグイシューという雑誌はホームレスの人の収入源になる雑誌だが、なるほど大きな女性という意味にも和訳できる。私は大柄で太っているし、とてもきれいな女性とは言えない。二の腕は丸太に例えられ、ぼそぼそした声はババアの声と嘲笑された。眉毛ぐらい描けよとか、大きなお世話をたくさんの方からしていただいた。ありがとう。
それらをまとめて嫌味として、おとなしくしてろよ、ババアが!という牽制だったのかもしれない。足を引っ張られたことにも気づかぬほどに出る杭になっていた私が今言えることはひとつだけ、
あなたの思いに気づけなくてごめんなさい。私の罪(的外れ)を認めます。
羊の皮をかぶった狼はそこら中にいる。
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