いっぴ♡

10月に突入した。

月が変わったり、年が変わるのはいい。新たないきもちに転換する良い機会だからだ。世間も雰囲気を転換してくれる、だから個人個人の転換にも向いている。区切りをつけるという意味では終わりを意味することが多い気がするが、そんなことはどうでもいい、今日から何をしていこうかに注目していけばいい。

後ろを見すぎると、足を引っ張られる。自分自身が足手まといになることもあろう。のど元過ぎても熱さ忘れぬタイプは特に注意が必要かもしれない。


さて、10月より私は小説掲載を一元化する。幾度も言うように私はシングルタスクな人間だから、窓口がありすぎると常にパニック状態になる。人と会うときも多人数ではなく一対一を好むのもこのためだ。

NOTEで連載しているもの、カクヨムで連載しているもの、それらすべてをBCCKSに集約して販売していく。

本日、日中にこちらのホームページのリンクも整理するつもりだ。

昨年より様変わりした自分の人間関係に感謝している。私の才能を信じてくれる人が格段に増えた。私の才能のために私をサンクチュアリに囲ってくれる人が格段に増えた。サンクチュアリという逃れを許してくれたこと、形成に尽力してくれたことに一番感謝している。

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昨年の今頃は一昨年に思いをはせ、自分の環境が様変わりしたことを感謝していたように思い出す。昨年は「もうこれ以上最強の環境はないかもしれない」と思ったけれど、今年はその何倍も素晴らしい環境が整えられた。素晴らしい環境には同じ温度で物事を感じ考えられる友達も家族も身内もいる。

人生は自分が描く以上の結果を与えてくれる。自分が信じれば。自由に描いて実現してしまったほうがお得だが、そんなうまい話はないとどこでふきこまれたかわからない教育にすがっているから人生に成功者と凡人の差が生まれるのだと思う。どちらを選ぶかは私たちの自由だ。そして信じることも選択制とされている。信じることは選ぶことでもある。危険だと世間一般の常識で言われている方を選ぶ時、世間の常識の王ではなく、別のベクトルの王が味方する。それが神だ。

聖書は神と富、両方に仕えることはできないと伝えているが、これは金持ちは神との折り合いが悪いという意味ではない。信じる対象が世間の常識、つまり貨幣経済の紙っぺらなのかどうかという選択をせまっているのだ。

経営者、有能なスポーツ選手ほど自分の宗教を持っている。何も必ずキリスト教というわけではない。人間の想像をはるかに超えた何者かに畏敬の念を抱くことで、自分の能力を120パーセント出力できることを経験で知っている。成功者は経験から神の存在を認知しているのだ。

無神論者だとか無宗教だとか、神というのは弱い人間が信奉するまやかしだと言うのはたいてい凡人で、自分の想像の範囲はそれまでであると言っているようなものだということにさえ気づけていない。つまり、自分の想像の範疇でしか物事を考えられないから視野も狭いと言えるのだ。思考は宇宙よりも巨大で、創造は銀河のかなたの宇宙人さえも味方につける。夢物語だとか、子供の空想のお遊びで現実を見ろという人は視野が狭い人と思って無視でいい。可能性の新芽を積む人々を神は愚か者と捨て置かれる。神のDNA配列を授かっている人間は他人の可能性を信じるべきなのだ。たとえ今は理解できなくとも。


私たちクリエイターや行動的な人々が見ている現実とは未来のかなた、それこそ100年先の常識への貢献である。現実にいながら未来への貢献を無意識に頭をかすめ、言葉の合理性を算段するから、安易に物事を糾弾できない。そんなこともあるよね、と理解できずとも共感できるのは優しさとは思いやりであり、判断能力に優れているからと言えよう。

今の自分が知らないだけという判断は能力の高さを物語る。


知識太りのダイエットは難しい。自分の脂肪が無益なものだと理解できないからだ。

論破の本質を理解できる人はディベートに強い。論破をゲーム感覚で楽しむ人は、自らの言葉によって死を招く。所詮ゲームだ、何度死んでも復活できるのだから気にも留めないだろう。メンタルの強い人は人生をゲームだと思っているから微細に人への対応が雑なような気がする。

ディベートは肯定派と否定派に別れて議論する。どちらも主張に本軸を持っているから寝返ったりすることはできない。言い換えれば覚悟であり自信であり責任だ。水辺の前に陣を張るのは竜神のご加護を信じているからなのかもしれない。神に仕える人々はこの世の常識にとらわれない。

しかし、論破のゲームには勝敗に重きを置いているから主張に本軸がない。なんでもいいから勝てばいい。だから寝返ることも平気なわけだ。言い換えれば殊勝、日和見、無責任である。強固な本丸を作って、籠城まで算段して戦に挑む人々は、明日嵐が来てすべてが無駄になるという歴史からの教えを覚えていない。仕方あるまい、今をみつめる現実主義なのだから。


いっぴ。何かを始めるには都合の良い日である。私たちはこの瞬間から変化することを許されている。誰に許されているのか?神か?否、自分にである。









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