父が帰ってきた。
介護タクシーを予約して、我が家の玄関からのあがりが高いからそこに手すりをつけて、ちょっとした移動も車いすで、といろいろ考えていたけれど幸いにもすべて杞憂に終わった。拍子抜けしたほどに父は元気だった。
母の車で帰宅し、玄関のあがりでいったん座って呼吸を整え歩いて自室まで向かい、お昼は母が作った鯖缶カレーをおいしそうに食べ、今は寝ている。「病院のごはんなんて味気もなにもねえや」と、いろいろと文句を言いながら、いろいろな話をする。ぜえぜえすることはもちろんあるし、背中をさすればすぐに背骨が確認できてしまうほどに痩せてしまった。だけど、それ以外は良好、入院前とたいして変わらない。放射線治療をしたという点では入院前よりもよくなっていると言えるそうだ。
パパ、とりあえず1か月の入院生活お疲れさま!!
肉体労働者だったことが幸いしているのかもしれない。筋トレで鍛えたわけではないけれど、日々の仕事で体が鍛えられ、闘病にも耐えられる体を自然と形成していたのかもしれない。すべてを益としてくださる神様のご臨在をまた私は実体験から確認した。確信を持っても確認まで与えられることは恵まれているように思う。
かなり痩せましたよと主治医は言った。たしかにかなり痩せたように思う。けれど、洋服を着ていればまるで感じられない。母はショックのあまり5キロ痩せたという。けれど、もとが太っているから痩せたことは感じられない。私だけが体重維持で一切痩せていないわけだが、それなのにあごの周りがふんわりしているように見えるのだから、一番損をしているのは私なのではないかとひがんでしまう。
見た目以上に苦しみを抱えているし、見た目以上に気楽な人生を生きている。見た目でその人の人生のそれとなりを感じられる人はそう多くはない。けれど特別になりたい気持ちが流行って、考えるよりも感じることがかっこいいとされる流行だから、多くの人は感じるほど考えてもいないのに感じたふりをする。面白くないジョークというのは知能指数に比例する。いじることとジョークは違う。いじっている自覚があるのなら、自分は下品な人間で、その意地悪い微笑みの裏で「あなたに嫉妬しています」と主張し、認知されることを望んでいることを認めざるを得ないだろう。また他人さまはそう見ていることもひとつご進言申し上げよう。
嫉妬は時間の無駄だしコスパが悪い。顔が歪んでくるからだ。ブスになる。心が歪むと顔が歪む。顔が歪むとどうやら脳みそも歪むらしく言語圏もおかしな方向になり、頻出する言葉が乏しくなる気がしている。これは独自の統計調査によるものだけれど、暗いオーラが武具となり、さらに武装するために写真を撮りたがるようになる。当てつけのSNS運用はその最たるもので、いい気味だとすっきりするその感覚がすでにろ過できないほどの汚泥である。汚泥の心は汚泥の顔を形成する。今一度鏡で自分の顔を見てみるといい。
鏡よ、鏡、世界で一番美しいのは誰?
鏡は答える、
「それはあなたです」。
今、私も鏡を見ている。鏡は私のゆがんだ顔と心を認識してもこう答える、
「世界で一番美しいのはあなたです」。
この比喩も正しく理解できれば私と同じなのだろうが、きっと歪んだ顔をまたゆがめて醜い微笑で私に対してこう思うのだろう、「自分でわかってんじゃんww」。
愚かさと醜さは連動していることを異性たちは本能的に気づいている。めぐまれているかどうかは神の賜物ではなく、自分の罪をどれだけ認めているか、そのことを私は宣べ伝えたい。
0コメント