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会話力が落ちている。

聞く能力が下がっているとか、言葉のバリエーションが減ったとかそういう話ではなく、人と会話するときの間合いが格段にへたくそになっている。

帰省して面と向かって話す機会が増えた。初見の人と話すと特にブランクを感じる。傾聴力の減退は自尊心をも奪う。円滑なコミュニケーションの実績は私に安心感を与えるからだ。

父が明日退院してくる。退院に際して各機関との連携や事務手続きをしてきた。病院、役場、農機具の買い取り、介護用品レンタル会社、親戚づきあいを再会したのも今回のタイミングで、昔ながらの知り合いとはいえ、親戚も初見のようなもので、社交的だと評価されても根が内弁慶だから、一通りのご挨拶や役目が終わるとメンタルを半分崩して寝込んでしまう。私の弱さは強さで武装して、社交的であるという生きる知恵によってカバーしている。本来は昔ながらの人間関係しか受け付けないような、あらゆることに変化を嫌う保守的な人間だ。だからこそ、私はコミュニケーションが割合得意なのだと思う。

コミュニケーションに対する自尊心は自分のコンプレックスに起因する。

求められることが苦手だし争うくらいな譲ってしまう。

何が何でも勝ち取ろうという気概が実はない。スポーツが好きで、勝負事が好きで、見ているとわくわくして、発破をかけて、上げて下げて鼓舞して押し上げることはとても得意だけれど、でもそれは私自身が生来の勝負師というわけではなくて、コミュニケーションによる自尊心が欲しくてやっていることだと思う。ベクトルが違うからこそ互いに化学変化を与えあえるような、私と友人たちはそんな関係なのかもしれない。

ふるさとで出会った多くの初見の人々が一瞬の会話の中で笑顔になってくれることが嬉しい。頑張りすぎなくていいと言われても、その瞬間の喜びには苦しみに代えがたい幸せが詰まっている。

時々、懇意の美容師さんとおしゃべりしたい衝動に駆られる。彼の笑顔と話すエネルギーが私には合っているし、私にエネルギーを注いでくれる。

男の人が好きなんですと公言するけれど、私は女だから対極のエネルギーを好むのはごくありふれていることだと思った。プラスにはマイナスが必要だから。

ありふれた好みではないのがLGBTQなのだと思う。稀有な好みであって異質というわけではない。LGBTQに対して何の思いもないけれど、私は女で男が好きだからゲイの人にうっかり恋をしてしまったら申し訳ないなあと思うことはよくある。そんな意味でも異性愛だけを良しとする社会はわかりやすいいなあと異性愛者の私は感じる。つまり、コミュニケーションで解決するような単純な問題を、解釈が間違って聞きにくいこととしてしまった風潮が問題で、発展させれば、気づいて空気を読めというコミュニケーションの怠慢があらゆる物事を複雑化して誤解をうんでいるのだと考察した。


「たぶん」、「おそらく」、これらは机上の空論で、その会議は物事を進めるという意味では全く意味をなさない。井戸端会議のレベルでストレス発散程度であるのならばそれでもいいだろう。しかし、本当に進めたい物事をそこでとどめておくことは、いずれ評論家の批判の的となる。キリスト教の罪は「的外れ」と訳されることもある。評論家がなぜ的外れなのかといえば、本人たちが開催した会議そのものが目的をもって行われたものではないからだ。ボタンをひとつ掛け違えてしまえば一番最後に到達するまで気づかないこともよくある話だ。


さて、ここからが今日の本題だ。

ぷんちゃん、私とのやりとりを友達に自慢するのやめてもらっていいですかね?

35と36のいい大人の恋愛をですね、都度都度「ご町内の皆さま~」のごとくやられたら私もさすがにブレーカー落としたくなります。父のベッドは電動なのでブレーカー落とすわけにはいかないんですよ。


…とはいうものの、パンさんの時もそうだったが言って聞くような人間ではない。主役不在で「負けられない戦いがそこにある」と盛り上がってしまうような人間だから。

ビーズのARIGATOにはこんな歌詞がある

「君が泣いていたの知っていたけど、それを君も知っていたんだろう?」

ぷんちゃんが知っていたことは知らなかった。私の鈍感さが方々に誤解を与えたことも否めない。関係各位、ごめんなさい。


毎日あらゆる初体験に見舞われて、キャパを超えてどうしようもなくなって、メンタルが破れて壊れて泣いて怒って忙しい日々である。

何が正しいのかもよくわかっていない。


結論

ぷんちゃん、任せるよwww









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